石田潤一郎教授は日本近代建築史、環境史を研究分野とされており、吉田寮とも縁の深い方です。
吉田寮に関する建築史的コメント
石田潤一郎(京都工芸繊維大学大学院)
学生寮・寄宿舎の歴史において
明治以降の洋風建築の普及にあたって、教育施設と産業施設は社会的需要が非常に高かった。それだけに、中心的存在の校舎あるいは工場棟とは別に非常の多くの学生寮や寄宿舎が西洋的な建築意匠・技術によって建設された。重要文化財の龍谷大学南北黌(1879年)はベランダモチーフによる学生寮であり、明治の西洋化の息吹をよく伝える。ただ、こうした少数の例外を除き、戦前期に建てられた学生寮は1980年代までにほとんど建て替えられ、現在まで使用されている遺構は稀少である。
この分野はこれまで建築学的な研究が乏しい。まず建築計画学の泰斗で京都大学教授を務めた西山夘三がその著『日本のすまい』第3巻のなかで寄宿舎の近代における歴史的展開を概観している。また産業施設史研究においてグンゼ、鐘紡、クラボウといった繊維産業の女子寄宿舎に関する論文が見られる。このほか、北大予科「恵迪寮」など個別事例のデータが紹介されている。
それらによれば、1900年前後(明治40年前後)に中廊下をはさんで居室を南北に配置する平面構成は衛生的見地から減っていき、北側に廊下をとって居室を南面させるパターンが定着する。
学生寮においては高校までは寝室と自習室を併置し、寝室は4人~8人部屋が通例であった。これに対して吉田寮は大学生のための寮として1人部屋であり(一部2人部屋)、紳士扱いの現れと見られていたという。いうなれば、学生寮の形式が安定した時期に、そのエリート版として建設されたのが吉田寮であった。
歴史的環境
京大キャンパスは1889年の三高開設時以来の累層が特徴である。明治・大正・昭和・平成の4代にわたる建築物の併存という特徴は本部構内、特に時計台周辺ではある程度意識され、歴史的環境の保全が試みられている。また医学部構内でも解剖学教室では明治期の木造・煉瓦造建築物が保存されている。そうした中、南部構内は必ずしもそうした観点からは注目されてこなかったが、あらためて見てみると際だった特徴を示していることがわかる。
南部構内は、元来1897年に京都府から京大が寄付を受けた敷地である。当初は医科大学の仮教室の用地とされたが、医科大学施設が竣工すると、学生用の厚生施設が設けられていく。まず、学生集会所が1911年に竣工する。これは京大営繕部の永瀬狂三(東京大学建築学科1907年卒業)の設計による建築で、木材の構造体を露出したハーフティンバーの手法のなかに、19世紀末から20世紀初頭に現れた新造形であるゼツェッションの影響を見せた建築である。これに続いて吉田寮が1912年に建造される。意匠的には1900年前後に定型化された木造下見板張りを踏襲するが、屋根裏換気に特に配慮した様子がうかがえるのは新機軸といえる。なお付言すれば、それ以前の京大寄宿舎は1889年建設の第三高等中学校寄宿舎を転用しており、本部構内中央北寄りに置かれていた。文学部・法学部の施設を拡充するにあたって現在地に新築移転したものである。
さらに1925年に同窓会館である楽友会館が建設される。京大創立25周年記念事業の一つとして企画されたもので、設計は京大建築学科助教授の森田慶一である。森田は東京大学卒業時の1920年に分離派建築会を組織して前衛的な建築運動を展開したが、ここでも表現主義的な反転曲線を持つY字型の柱など、斬新な造形を見せる。
すなわち、南部構内に現存する3建築は14年間ほどの時間差しかないが、19世紀的な吉田寮、世紀末造形の影響を見せる学生集会所、表現主義的な楽友会館―と、20世紀の建築造形の転換を示す作品となっているのである。
ここまで述べたように、吉田寮とこれを中核とする南部構内は、建築史的に見て稀少かつ良質な歴史的環境を形成しているということができ、その保全と活用を強く希望するものである。
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