関西大学・環境都市工学部・建築学科の西澤教授は木造建築の補修保全の第一人者です。京都大学工学部建築学科に在職中には京大の木造建築物の調査を実施されるなど、吉田寮とも縁の深い方です。
関西大学西澤研究室
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2012年3月4日
古い木造建築の構造対策を考える -吉田寮と旧食堂を巡ってー
西澤英和
●はじめに
吉田寮、学生集会所、そして旧食堂などの洋風木造建築群はぼちぼち竣工百周年を迎えるという。
少し余談になるが、私が京都大学に入学したのは1970年。世間は大阪万博に沸き立つ一方、やや下火になりかけてはいたが、学園紛争の火の手はいたるところで強かった。あの頃わが国の人口は1億人を突破。多すぎる人口でやがて日本は持たなくなるとの悲観論を耳にした記憶がある。それから40年あまり、数年前に人口は1億2千数百万人でピークアウト。今度は人口減少で近い将来に日本は崩壊するとのご託宣がマスコミを賑わす昨今である。世の中は随分変わったとつくづく思う。
●建築技術から振り返る吉田寮界隈の木造建物
さて、学生時代、私もしばしば吉田寮に友人を訪ねた。当時は、東大路側の入り口脇、学生集会所の向かいに音楽部の木造平屋の建物があったが、かなり前に焼失。昔に比べると銀杏並木の景観はやや寂しくなったが、このことを除くと40年前の記憶と今の吉田寮界隈の姿は殆ど変わらない。これは卒業生のみなに共通した感覚ではないかと思う。
ところで、われわれが普通目にする木造家屋は50年も経つと随分古びた感じになるものだ。もちろん、吉田の木造建築にも雨漏れなどの傷みは確かに進んでいる。しかしながら、想像を絶するほど酷使され続けていることを考えると、この半世紀における建物の傷みの進み方は信じられないほど緩慢といえよう。
これにはいくつかの要因が考えられる。
まず指摘できるのは、木材の良さ。床板は全て柾目の長尺材。柱は大抵赤みの四方柾。シロアリや腐朽損傷を受けやすい源平材などは見当たらない。階段は手摺も踏み板も総ケヤキ造り。旧食堂の小屋組の木造トラスなどは寒暖の差に加えて湯気や湿気に何十年も晒されてきたにもかかわらず、捻じれや反りは認めがたい。今ではとても望めないような、天然の良質木材を吟味したからこそ、長年の風雪と酷使に耐え得たのであろう。
もう一つは高度な設計と施工の技術。スレート葺きの学生集会所は文明開化後に導入された洋風木造を基調とし、一方、和瓦葺きの旧食堂や吉田寮は伝統的な和風建築の色彩が強い。とはいえ、いずれも小屋組みや架構の随所に洋風木造の新しい手法が取り入れられている。学生集会所は和三洋七、寮や旧食堂は洋三和七の和洋折衷建築とでもいえばよいだろうか?
吉田寮に見られるような大規模な公共施設は江戸時代までの日本建築にはなかった新しいジャンルであった。そのため、時代の要請にこたえるべく、当時の建築界は洋風技術の導入と咀嚼に取り組んだ結果、明治末頃には洋風木造技術をすっかり国風化して、新しい和の造形美を競い合うまでになった。
吉田の木造建築にはその頃の時代の息吹とともに、伝統の和風技法と洋風技法の融合によって生まれた新しい木造の造形美が表現されている。これが吉田界隈の木造建築の不思議な魅力に繋がっているのであろう。
そして3つ目に環境との良き関わりを挙げてもいいだろう。鬱蒼とした高木、雑草が生い茂る中庭などはやや湿気勝ちであるが、不思議なことに、室内は鉄筋コンクリートの現代建築よりも明らかに快適だ。
吉田寮が建設されたころの日本で重視されたのは、保健衛生であった。とりわけ若い世代を蝕んだ結核は亡国の病として恐れられたが、特効薬や予防接種がなかった時代、重視されたのはいかにして健康に良い建物-居住していて人が病気に罹らない建物を作るかということであった。ガラスがまだ国産化されていなかった時代になぜあれほど大きな窓や寮にしては贅沢すぎるベランダなどを設けたのだろうか?そこには太陽光線と清浄な空気をいっぱいに取り込もうとする当時の設計思想が感じられる。要するに吉田地区の木造建築は、健康を重視した理想的な住環境を作ることにあったように思えてならない。
今や吉田寮などは周囲の環境や動植物とすっかり一体となって小さな生態系を形作っている。ここに棲むのは人だけではない。モグラにヤモリ、ヘビに鳥、無数の虫たちも吉田寮―私は勝手に京都の“ときわ荘”と呼んでいるがーの住民であり仲間でもある。このように人が作った環境に自然が根付く建物―それこそが、日本建築の理想である。
このような理想の状態に近づくまでに実に百年の歳月を要したが、その背後には人の健康を守ろうとした設計者山本治兵衛氏とともに昔の棟梁や技能者の自然への敬意の気持ちがあったように思えてならないのである。
●耐震対策へのコメント
今話題になっている旧食堂の耐震対策についての一見解を述べよう。
古い木造建物の耐震化を考える際に大事なのは、構造補強を考えるより前に、まずは適切な修理を考えることである。どんなに優良な木材を使い、入念な施工がなされたとしても、維持修理が及ばず、木材が腐朽や蟻害によって著しく欠損すると、地震や台風などの自然災害が起こった時に本来の強度を発揮することはできないためである。
また部材の修理と関連して、損傷の原因を見極め、将来同じ障害が起こらないための対策も忘れてはならない。
因みに旧食堂の損傷は、外部の壁体や柱の基礎部に集中している。その原因は建物の周辺地盤が、当初の建物の床面より次第に高くなり、排水溝も塞がって雨水が建物に浸入しやすくなったために、木造の土台や柱の足元が腐朽や蟻害が生じ、壁下地などにも損傷が及んだためと考えられる。
但し、旧食堂の柱の傷みは著しいが、このような状況に対する修理技術は既に1千年以上も前に確立されている。つまり、伝統社寺建築でよく行われている“根継”―腐朽した部分を取りさって、新しい健全な部材と部分的に取り換える修理を行えばよいのである。もし柱などの腐朽損傷がさらに広がっていれば、柱一本を丸ごととり替えたり、それに繋がる部材を作り替えることもさして難しくはない。
なぜ、こんなことが可能かというと、伝統的な日本建築では主要な柱や梁などの軸組みが屋根などの大きな荷重を支えるように作られており、大きな面積を占める壁体の構造的な機能は建物の変形を抑制することに主眼が置かれているだけであって、上からの荷重を支持しなくてもよいからである。
言い換えると、大きな鉛直荷重を支持する重要な柱が損傷した場合には、周辺の壁の一部を最小限解体し、そこに損傷した柱の荷重をバイパスさせる支えを入れることにより、元の柱の荷重を安全に他に流すことが容易である。こうして短期間仮支柱を入れて、損傷の著しい部位を根継したり、柱全体をとり替えたりするという建築的な手術が千年以上にわたって行われてきた。
また、もし建物が不同沈下しておれば、バイパス支柱の下部にジャッキを入れて徐々に建物を持ち上げて変形を調整することもあわせて行うのが通例である。いわゆるジャッキアップである。一般に、木造建物は軽量なために、屋根瓦をわざわざ降ろすことなくジャッキアップを行うことも可能であるが、その際は屋根荷重の受け方などの検討を別途行うことになろう。
やや、技術的な話にそれたが、旧食堂の将来の利用を考えた場合、私は”根継”を行うよりもむしろ煉瓦造の基礎や場合によっては土間部分を鉄筋コンクリートで補強し、さらに窓台の高さまでフーチングを高くする手法を提案したい。こうすれば将来周辺地盤が嵩上げされても雨水の浸入の懸念はなくなり、さらに根継に比べると随分工事が楽になるからである。
実はこのように既存の木造柱の下部を切り詰めて、煉瓦やRC造の高基礎に置き換える工事が明治以降、京町屋などで盛んに行われるようになった。特に台所の井戸周りにそのような施工がなされたからか、”井戸引き”とも呼ばれたらしい。これも和の伝統修理技法のひとつである。
更に、建物全体の耐震性を向上させるには漆喰や土壁で仕上げられた既存壁の一部をより強度の強い耐震壁に置換すれば現行基準を難なく上回る性能が実現できる。ただし、この場合でも安易に新建材に頼るのではなく、当初と同じく木、竹、砂、土、漆喰、そして若干の鉄材で伝統工法の作法どおりに施工することが望ましい。伝統的な自然素材を用いた木造耐震壁は文化財の保存修理などで最近普及していることを付記したい。
最後に話は逆になったが、真っ先に取り組むべきは吉田寮や旧食堂の煉瓦造の防火壁の耐震化である。これらは耐震性については余り考慮されていない無筋煉瓦造の可能性が高いからである。特に、旧食堂などの防火壁は壁厚の割に高さが高いだけに、強い地震力が面外方向から作用すると、ブロック塀と同じように倒壊する危険性がはなはだ大きい。
もし、建物側に何トンもの煉瓦塊が倒れこめば人的被害が及ぶ危険性が極めて高く、逆に外側に崩落すると木造架構全体を引き倒して同様に建物を大破壊させる可能性がある。
しかしながら、吉田地区の防火壁は敷地条件に恵まれていることもあって、耐震補強はさほど困難ではない。早急な対応を望みたい。
建築の医者の視点から思いつくままを記したが、今吉田地区の建物と同じ建物を建設するとして、これほどの良質な木材を大量に確保するにはどれほどの費用がいるのだろうか、あるいは大工や左官の人件費はどれくらいになるのだろうか?そんなことを考えても、早急な修理と耐震改修そして設備の近代化が望まれよう。
以上
吉田寮の木造建築群は日本の木造建築が技術的に見て、ひとつの頂点に達した時期の力作だということを、多少とも歴史的建造物の保存修理事業に深くかかわる様になって、改めて思う。
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