2011-11-14

2.近衛寮再開から終戦まで

「東には三十六峰、北には比叡愛宕の両峰。東雲が薄らぐ朝と、夕日に映える夕暮れの景色は、得もいわれないほどの美しさだ」

 1913年吉田近衛町に二階建ての寄宿舎が復活した(この建物が現在の吉田寮である)。復活の感動を舎生が冒頭のセリフに表した。

寄宿舎自治再編の動き

 旧寄宿舎の経験者が入舎したこともあり、新しい寄宿舎でも再び自治が形成されていった。 
 同年には大学で澤柳事件*¹が起こり、それに続いて総長を学内選挙で選ぶことが実現された。こういった大学自治の確立と拡大は寄宿舎の自治運営にも好影響をもたらし、入舎銓衡への舎生の参加なども再び認められた。

*¹澤柳事件……就任したての澤柳総長が、7人の教授を学問的そして人格的に不適当として辞職勧告をしたところ教授会が反発したもの。教授の任免は総長と教授会の合意が必要であると文部省が公式に認め、澤柳は退任。教授会自治が確立した画期的な出来事であった。



第二回各寮総務委員 (1915年)


 しかし1925年には京都学連事件*²が起こり、大学自治と学問の自由の蹂躙として大きな反発を呼ぶ。警察が大学当局に無断で寄宿舎の家宅捜索を行ったことなどが問題となり、大学内では学生大会が開かれ抗議の声が上がったが、内務省はこの件に関し「治安維持法」を適応、反対の声は封じられた。澤柳事件から始まった学内自治拡大の揺り戻しともいえる。

*²京都学連事件……学生の研究団体である社会科学研究会と、それが加入する京都大学学生連合に対する思想弾圧。1925年同志社大学構内に軍事教練反対のビラを貼ったことを理由に、社会科学研究会の中心メンバーが逮捕された。舎生の熊谷孝雄もそこに含まれていた。


「南寮第廿号室誌」(1918~1942年)
 
在室の記念として寮生が各自記入した。



「南寮乙第廿号室誌」

瀧川事件に関する文章が書かれている。


 1930年には食堂の業者委託を廃止して、寄宿舎で炊事人を雇う「自炊制度」が開始。毎年十二月には「自炊制度記念祭」が食堂で開催されるようになった。このころから寄宿舎の生活が旧制高校風を帯び、ストームを起こす者などが表れた。
 次第に寄宿舎の生活にも戦争の影響が色濃くなる。1945年には敗戦を迎えた。


寄宿舎火災状況報告 (1941年)

中寮が火事で焼失した際の報告。
出火の原因はヒーターであるとのこと。

寄宿舎火災被害状況写真等 (1941年)

  

寄宿舎勤労動員名簿(1942年)

寄宿舎勤労動員名簿 (1942年)



「中寮日誌」(1942~1943年)


「中寮日誌」(1942~1943年)

戦時中の食糧難などについて書かれている。


                      
絵葉書

絵葉書

絵葉書




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