1945年に敗戦を迎え、寮自治の目的は「規律あり制裁ある一の切磋団体を組織する」から「責任ある生活を営み、舎生相互の人格向上を図ること」に改められた。また寄宿舎は、復員学生の問題に直面した。生活難など厳しい環境の中で良好な生活環境を維持するための努力が当時の舎生に必要とされた。
1950年には初めて新制の学生が入舎し、寮に大きな影響を与えた。この時の寮の変化が、たびたび繰り返された「切磋琢磨の自治」と「自由な住みかとしての寮」の振り子において、決して前者へと戻ることのないターニングポイントになったのである。
北寮日誌「心琴」(1945年) |
北寮日誌「心琴」(1945年) |
ララ救援物資受払簿 (1949年) |
ララ救援物資受払簿 (1949年) |
■学園復興会議、そして京大当局との衝突
学生の自治活動が活発になるとともに、大学当局との衝突も起こるようになった。
1953年11月8日、全国からの自治会代表者が京都に集まり全日本学園復興会議が開催されるが、京大当局は学外者を含む集会は認められないとして会場使用を不許可とする。さらに11日の「わだつみ像記念集会」においては、集会に合流するため京大を出発した同学会(全学自治会)のデモ隊が警官隊により厳しく規制された(荒神橋事件)。これに対する抗議集会が19日に時計台前で開かれ、3500人もの参加者があった。しかし当局は会場の無断使用を理由に同学会の執行部を処分、舎生であった松浦玲さんには退学処分が下された。舎生大会では松浦さんの退学処分反対と生活支援を決議、全学学生大会でも処分反対の決議が挙げられ、反対運動が展開された。
学園復興会議 寮問題分科会議議事録 (1953年) |
学園復興会議 寮問題分科会議議事録 (1953年) |
松浦さんに関する一連の出来事は、入退舎権の重要性と舎生規約の必要性を当時の舎生に強く認識させた。これを受けて1955年には寮自治の運営実態を「自治憲章」が採択される。当局から後に示された「寄宿舎規程案」とは相反するものであったが、しばらくはこれらによる二重規定状態が続いた。
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