■闘争の背景とその経緯
1968年、全国の大学で学園闘争が多発した。学費値上げや学生会館の管理運営権の問題などをきっかけに、教育環境の是正を求める「学園問題」と、ベトナム反戦・70年安保の「政治問題」を連結させた運動が展開されたのである。
京大では、当時の奥田総長が学生に対し話し合い路線をとっていたものの、当局側が寄宿寮不払いや増寮要求を頑なに拒んだため、両者の対立が深まっていった。
また学生運動の系統の分裂も加速していった。戦後の学生運動は専ら日本共産党の影響の下で進んできたが、60年安保の少し前から、共産党の青年組織である「民青系」と、それとは路線を異にする「反民青系」に分かれるようになっていたのである。
京大における同学会(全学自治会)、寮闘争委員などは「反民青系」に属し、京大内でもこれら両者の対立は深まっていった。
こういった状況を背景として、寮生による対学生部闘争が開始される。当時の寮生は「無条件増寮、20年長期計画白紙撤回(吉田東寮廃寮を含むもの)、経理全面公開」を掲げた。1969年3日間にわたる団交が決裂すると、寮闘委は学生部建物を占拠。話し合いを続けても何ら問題が解決されないことに対し怒りを表明した。
闘争にかかわった学生の意識は多様であった。党派に属する学生は、固有の革命理論に基づく政治運動の拠点づくりを目指したが、大多数の学生は、管理社会を問題視して自らの立場から運動を展開し、新たな活力を求めようとした。こういったひとつの理論に収斂されない多様性が、京大闘争を深くそして長く継続させたといえるだろう。
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