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2012-03-18

石田教授に文章を寄稿していただきました

京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科の石田潤一郎教授が、吉田寮舎の歴史について述べた文章を寄稿してくださいました。

石田潤一郎教授は日本近代建築史、環境史を研究分野とされており、吉田寮とも縁の深い方です。

 

 

 

吉田寮に関する建築史的コメント


              石田潤一郎(京都工芸繊維大学大学院)

 学生寮・寄宿舎の歴史において


 明治以降の洋風建築の普及にあたって、教育施設と産業施設は社会的需要が非常に高かった。それだけに、中心的存在の校舎あるいは工場棟とは別に非常の多くの学生寮や寄宿舎が西洋的な建築意匠・技術によって建設された。重要文化財の龍谷大学南北黌(1879年)はベランダモチーフによる学生寮であり、明治の西洋化の息吹をよく伝える。ただ、こうした少数の例外を除き、戦前期に建てられた学生寮は1980年代までにほとんど建て替えられ、現在まで使用されている遺構は稀少である。
 この分野はこれまで建築学的な研究が乏しい。まず建築計画学の泰斗で京都大学教授を務めた西山夘三がその著『日本のすまい』第3巻のなかで寄宿舎の近代における歴史的展開を概観している。また産業施設史研究においてグンゼ、鐘紡、クラボウといった繊維産業の女子寄宿舎に関する論文が見られる。このほか、北大予科「恵迪寮」など個別事例のデータが紹介されている。
 それらによれば、1900年前後(明治40年前後)に中廊下をはさんで居室を南北に配置する平面構成は衛生的見地から減っていき、北側に廊下をとって居室を南面させるパターンが定着する。
 学生寮においては高校までは寝室と自習室を併置し、寝室は4人~8人部屋が通例であった。これに対して吉田寮は大学生のための寮として1人部屋であり(一部2人部屋)、紳士扱いの現れと見られていたという。いうなれば、学生寮の形式が安定した時期に、そのエリート版として建設されたのが吉田寮であった。

歴史的環境

 京大キャンパスは1889年の三高開設時以来の累層が特徴である。明治・大正・昭和・平成の4代にわたる建築物の併存という特徴は本部構内、特に時計台周辺ではある程度意識され、歴史的環境の保全が試みられている。また医学部構内でも解剖学教室では明治期の木造・煉瓦造建築物が保存されている。そうした中、南部構内は必ずしもそうした観点からは注目されてこなかったが、あらためて見てみると際だった特徴を示していることがわかる。
 南部構内は、元来1897年に京都府から京大が寄付を受けた敷地である。当初は医科大学の仮教室の用地とされたが、医科大学施設が竣工すると、学生用の厚生施設が設けられていく。まず、学生集会所が1911年に竣工する。これは京大営繕部の永瀬狂三(東京大学建築学科1907年卒業)の設計による建築で、木材の構造体を露出したハーフティンバーの手法のなかに、19世紀末から20世紀初頭に現れた新造形であるゼツェッションの影響を見せた建築である。これに続いて吉田寮が1912年に建造される。意匠的には1900年前後に定型化された木造下見板張りを踏襲するが、屋根裏換気に特に配慮した様子がうかがえるのは新機軸といえる。なお付言すれば、それ以前の京大寄宿舎は1889年建設の第三高等中学校寄宿舎を転用しており、本部構内中央北寄りに置かれていた。文学部・法学部の施設を拡充するにあたって現在地に新築移転したものである。
 さらに1925年に同窓会館である楽友会館が建設される。京大創立25周年記念事業の一つとして企画されたもので、設計は京大建築学科助教授の森田慶一である。森田は東京大学卒業時の1920年に分離派建築会を組織して前衛的な建築運動を展開したが、ここでも表現主義的な反転曲線を持つY字型の柱など、斬新な造形を見せる。
 すなわち、南部構内に現存する3建築は14年間ほどの時間差しかないが、19世紀的な吉田寮、世紀末造形の影響を見せる学生集会所、表現主義的な楽友会館―と、20世紀の建築造形の転換を示す作品となっているのである。
 ここまで述べたように、吉田寮とこれを中核とする南部構内は、建築史的に見て稀少かつ良質な歴史的環境を形成しているということができ、その保全と活用を強く希望するものである。

2011-12-08

7.メディア・出版物から見る吉田寮の姿

1.外から見た吉田寮
 吉田寮は、多くのメディアや作品に取り上げられてきています。ここではその一部を紹介します。

「猫のいる庭」(かわいゆみこ 心交社 1998年)
 吉田寮を舞台にした恋愛小説。寮内の描写がかなり細かく描かれている。ささくれだった畳や、廊下にともるむきだしの蛍光灯、中庭に生えているなぜか南方系の木々……。吉田寮を舞台にすることで、そのイメージを作品に活かしている。

「朝日グラフ 2・6号」(1987年)
 様々な角度から撮影された吉田寮の写真が掲載されている。寮内で生活する人々にスポットが当てられた写真集。バンド活動をする人、バイトをしながらシリア語を研究する人……。寮に人が暮らす様子は、寮が特殊な場所ではなく、当たり前に生活する場所であることを思い起こさせる。

「てんぐ」(本田恵子 雑誌「コーラス」1997年8月号 集英社)
 吉田寮を舞台とした恋愛漫画。主人公の女性は、廃寮化を阻止する運動に巻き込まれ、最後には初の女子寮生になってしまう。彼女はいったい吉田寮の何に惹かれたのか。それは「お金では買えないもの」だった。いつも誰かがそこにいる空間。「久しぶりにおいしい空気を吸っている気がしてる」というセリフ。外の世界にはない何かが、吉田寮にはあるのかもしれない。

 このほかにも、1993年2月17日の京都新聞夕刊に、学生自治寮の現在の姿として登場。「大学の選び方95」(週刊朝日増刊)の学生寮特集でも紹介されています。また映画「連合艦隊」の中で、吉田寮前の銀杏並木がロケに使われました。最近では「加茂川ホルモー」のロケ地ともなっています。


2.吉田寮自身が残した記録
 約100年の歴史の中で、吉田寮自らがまとめた文章も多くあります。ここでは主なものを紹介します。今昔吉田寮展」のなかで出てきたものもあります。

「以文会誌」
1909年にできた全学的文化団体「以文会」が、広く京大生を対象に発行した雑誌で、毎回のように寮日誌の抄録が掲載されている。「学友会誌」にも同様の寮日誌が綴られている。

「京都帝国大学寄宿舎誌」(その1)
  1910年から1912年にかけて3号のみ発刊された。「以文会誌」の寄宿舎欄だけに留まらず、寄宿舎の主張を広く学内に伝えようという目的もあったようだ。内容は寄宿舎論、寄宿舎生活の紹介、OB(舎友と呼ばれた)通信など。第3号には自主解散の顛末が詳しく書かれている。

「去来」
戦前には「友松」という舎誌があったらしい。戦後1951年にその「友松」を復活すべく始まったのが、舎誌「去来」。卒業者のメッセージなどが掲載される貴重な記録であり、また平沢興総長の寄稿などもある。京大闘争の前年1968年に発刊された最終号には、当時の吉田寮闘争委員会の若狭雅信の詩が掲載された(後にペンネーム「高城修三」として芥川賞を受賞)。これらの寄宿舎誌は、吉田寮文化部が発行した。

「京都帝国大学寄宿舎誌」(その2)
 和紙に毛筆で綴られた回覧雑誌が1906年より昭和期始めにかけてつくられ、これも寄宿舎誌と呼ばれた。内容は、舎生たちの寄宿舎論、寄宿舎行事の記録、随想、小説、旅行記(含写真)、ポンチ画など様々。総務日誌も生活の様子を伝えている。
そして、以上の「寄宿舎誌」と「総務日誌」を吉田寮OBの手で復刻したものが、700ページに渡る「京都帝国大学寄宿舎誌」である。1986年刊行、限定300部印刷された。忠実に日誌を再現しており、明治期から昭和の15年戦争までをとりあげている。発行は、有志の舎誌編纂委員会による。

「吉田寮新聞」
1984年から1993年まで、文化部が吉田寮新聞を発行した。在寮期限の到来により、寮外に吉田寮をアピールしていこうという狙いと、寮生自身の表現の深化のために始まった。内容の充実ぶりと、広く購読を呼びかけた(ミニコミ専門店や生協などに置いた)ことから多くの読者を獲得し、毎月の刊行にも関わらず、かつての寄宿舎誌に勝るとも劣らないボルテージを維持した。しかし在寮期限が終結し、狙いの消失とともに内容が吉田寮生の支持を得られなくなったこと、発行費用の負担が増加したことから、残念ながら1993年の寮生大会で発行中止が決定。その後1993年に復刊し、現在に至る。

「電柱ファン」
 吉田寮内に編集部があったミニコミ雑誌。その前身「自転車を除く」とともに、多くの寮生が編集に関わった。有志団体による発行。
 1983年、鴨川の川辺で白衣を着た調査隊が、メジャーを持ってアベックとアベックの距離を時系列で計った。そのときアベック同士が、アベックの数に応じて距離を調整しながら等間隔に座ることを、京都で初めて明らかにした。動物の本能的な防衛距離の取り様を、鴨川のアベックで実証したことが画期的で、この特集は多くのマスコミに引用された。

「記念誌」
 OBによる記念誌としては「野田もとさん追悼集」がある。これは、1940年から20年間勤められた寮母「野田もと」さんが亡くなられたときに、OBが追悼集としてまとめたもの。終戦直後の苦学生が多かった頃、縫物をしてもらったりある時は小遣いをもらったりと、世話になる寮生が多く、卒業後も「野田のおばあちゃん」として慕われ、OB会が開かれていた。
 また最近では1997年に、1956年卒業者を中心に「銀杏並木よ永遠に――京大吉田近衛寮の青春像」という文集がつくられている。有志の編集委員会の発行。

「吉田寮資料集」
1994年には、1985年から1990年までの吉田寮の廃寮反対闘争の生資料を集めた「在寮期限の到来からその終結へ」という冊子が刊行されている。自治会方針や、学内団体のチラシ、大学当局の発行物などを網羅した内容。発行は「資料集を公刊する会」という有志団体による。

2011-11-14

0.今昔吉田寮展

吉田寮は今年で築98年を迎えます。吉田寮は誕生してから約100年間、大学そして学生の歴史の舞台であり続けてきました。このページではそのような吉田寮の歴史を「今昔吉田寮展」として紹介したいと思います。

 吉田寮自治会が今のようなかたちで活動するようになるまでの経緯を、ぜひ知って頂きたいと思い、このような展示を企画しました。吉田寮は今この瞬間にも「歴史」を紡ぎ続けている場所です。この展示を見てくださった方が、今の吉田寮の姿を実際に見に来てくださると嬉しいです。

*この展示は、本年9月に開催された「やったね! 吉田寮ほぼ100周年祭」の一企画である同名の展示をベースとし、吉田寮の歴史的資料の写真などを公開しているものです。
 資料については、京大文書館から提供を受けたものを使用しています。吉田寮関連の資料は全て一般に公開されていて、誰でも閲覧できるようになっています。この展示を見て興味を持たれた方、もっと資料を見たいと思われた方は、ぜひ京大大学文書館まで足をお運びください。資料は京大大学文書館HPからも閲覧することができます。

「京都大学大学文書館」 http://kua1.archives.kyoto-u.ac.jp/ja/

 また資料の解説については、1999~2003年にかけて京都大学新聞に掲載された「吉田寮物語」を参考にしています。記事の画像をブログ上にアップしていますので、そちらもご覧ください。

1.創設から一時閉舎まで

 寄宿舎の開設とその経緯

 京都帝国大学寄宿舎が開設したのは1897年9月11日(大学の開設とほぼ同時期)である。大学は初め第三高等学校の建物の一部を間借りしており、寄宿舎はさらにその事務室の一角を代用していた。第三高等学校が二本松地区に移転したことにより、現在の本部構内の校舎などを京大が譲り受け、寄宿舎も瀟洒な三階建ての建物となった(この時点では、現在の附属図書館の北東に位置していた)。


 寄宿舎を開設した木下総長は、当初学生を「大人君子」として扱い放任主義を貫いた。後に風紀の乱れが問題となると、学生側などから自治組織が立ち上がり、一定の規律を設けて寄宿舎運営を行うこととなった。実質的な自主入寮銓衡が始まったのも当時である。また寄宿舎では高校との交流が行われたり、講演会などの催しものが開かれた。



綱領、入会規則、会員名簿


「吉田之秋」(1906年)
 
評論や創作、挿絵など舎生の作品が収められた冊子。
                               

「吉田之秋」(1906年)





「歳暮之巻」(1906年)

 


京都帝国大学寄宿舎誌 (1912年)

本部構内に建つ寄宿舎を背にして、当時の舎生が写っている。

 

 ところが1911年、当時の菊池総長は、寄宿舎を閉鎖して新寮を建てることを決定。新しい寄宿舎では従来の一室四人制を廃止して個室制にするとともに、大学当局*¹が入寮選考を行い学業優秀なものを優先的に入舎させるという。当時の舎生は新寄宿舎を「『高等下宿屋価値』だけで何ら精神的価値を見いだせない」と評した。また当局の決定が自分らに何らの相談もなく行われたことに憤慨し、抗議の意味を込めて自らの手で寄宿舎の解散式を行った。                            
  
*¹大学当局……大学当該部局の略称。「大学」と一言でいっても学生や職員など様々な立場の人を含むことから、区別をつけるためにこのような名称が用いられている。


「舎生総会記録」

 寄宿舎解散が可決されたことが書かれている。
 


2.近衛寮再開から終戦まで

「東には三十六峰、北には比叡愛宕の両峰。東雲が薄らぐ朝と、夕日に映える夕暮れの景色は、得もいわれないほどの美しさだ」

 1913年吉田近衛町に二階建ての寄宿舎が復活した(この建物が現在の吉田寮である)。復活の感動を舎生が冒頭のセリフに表した。

寄宿舎自治再編の動き

 旧寄宿舎の経験者が入舎したこともあり、新しい寄宿舎でも再び自治が形成されていった。 
 同年には大学で澤柳事件*¹が起こり、それに続いて総長を学内選挙で選ぶことが実現された。こういった大学自治の確立と拡大は寄宿舎の自治運営にも好影響をもたらし、入舎銓衡への舎生の参加なども再び認められた。

*¹澤柳事件……就任したての澤柳総長が、7人の教授を学問的そして人格的に不適当として辞職勧告をしたところ教授会が反発したもの。教授の任免は総長と教授会の合意が必要であると文部省が公式に認め、澤柳は退任。教授会自治が確立した画期的な出来事であった。



第二回各寮総務委員 (1915年)


 しかし1925年には京都学連事件*²が起こり、大学自治と学問の自由の蹂躙として大きな反発を呼ぶ。警察が大学当局に無断で寄宿舎の家宅捜索を行ったことなどが問題となり、大学内では学生大会が開かれ抗議の声が上がったが、内務省はこの件に関し「治安維持法」を適応、反対の声は封じられた。澤柳事件から始まった学内自治拡大の揺り戻しともいえる。

*²京都学連事件……学生の研究団体である社会科学研究会と、それが加入する京都大学学生連合に対する思想弾圧。1925年同志社大学構内に軍事教練反対のビラを貼ったことを理由に、社会科学研究会の中心メンバーが逮捕された。舎生の熊谷孝雄もそこに含まれていた。


「南寮第廿号室誌」(1918~1942年)
 
在室の記念として寮生が各自記入した。



「南寮乙第廿号室誌」

瀧川事件に関する文章が書かれている。


 1930年には食堂の業者委託を廃止して、寄宿舎で炊事人を雇う「自炊制度」が開始。毎年十二月には「自炊制度記念祭」が食堂で開催されるようになった。このころから寄宿舎の生活が旧制高校風を帯び、ストームを起こす者などが表れた。
 次第に寄宿舎の生活にも戦争の影響が色濃くなる。1945年には敗戦を迎えた。


寄宿舎火災状況報告 (1941年)

中寮が火事で焼失した際の報告。
出火の原因はヒーターであるとのこと。

寄宿舎火災被害状況写真等 (1941年)

  

寄宿舎勤労動員名簿(1942年)

寄宿舎勤労動員名簿 (1942年)



「中寮日誌」(1942~1943年)


「中寮日誌」(1942~1943年)

戦時中の食糧難などについて書かれている。


                      
絵葉書

絵葉書

絵葉書




3.戦後の混乱

戦後の寄宿舎の変化
 
 1945年に敗戦を迎え、寮自治の目的は「規律あり制裁ある一の切磋団体を組織する」から「責任ある生活を営み、舎生相互の人格向上を図ること」に改められた。また寄宿舎は、復員学生の問題に直面した。生活難など厳しい環境の中で良好な生活環境を維持するための努力が当時の舎生に必要とされた。

 1950年には初めて新制の学生が入舎し、寮に大きな影響を与えた。この時の寮の変化が、たびたび繰り返された「切磋琢磨の自治」と「自由な住みかとしての寮」の振り子において、決して前者へと戻ることのないターニングポイントになったのである。
 

北寮日誌「心琴」(1945年)

北寮日誌「心琴」(1945年)




ララ救援物資受払簿 (1949年)

ララ救援物資受払簿 (1949年)



学園復興会議、そして京大当局との衝突

 学生の自治活動が活発になるとともに、大学当局との衝突も起こるようになった。
 1953年11月8日、全国からの自治会代表者が京都に集まり全日本学園復興会議が開催されるが、京大当局は学外者を含む集会は認められないとして会場使用を不許可とする。さらに11日の「わだつみ像記念集会」においては、集会に合流するため京大を出発した同学会(全学自治会)のデモ隊が警官隊により厳しく規制された(荒神橋事件)。これに対する抗議集会が19日に時計台前で開かれ、3500人もの参加者があった。しかし当局は会場の無断使用を理由に同学会の執行部を処分、舎生であった松浦玲さんには退学処分が下された。舎生大会では松浦さんの退学処分反対と生活支援を決議、全学学生大会でも処分反対の決議が挙げられ、反対運動が展開された。


学園復興会議 寮問題分科会議議事録 (1953年)





学園復興会議 寮問題分科会議議事録 (1953年)

 
自治憲章生まれる

 松浦さんに関する一連の出来事は、入退舎権の重要性と舎生規約の必要性を当時の舎生に強く認識させた。これを受けて1955年には寮自治の運営実態を「自治憲章」が採択される。当局から後に示された「寄宿舎規程案」とは相反するものであったが、しばらくはこれらによる二重規定状態が続いた。

4.「寄宿舎」から「吉田寮」へ

寮運動の盛り上がり

 1959年大学は「寄宿舎規程」を制定し、その中で初めて「京都大学学生寄宿舎吉田寮」という名称を付与した。1962年には寮生側からこの規程の改正運動が開始され、主に自治会による入退寮権保持が要求される。また工学部拡大に伴う学生数の急激な増加を受けて、増寮運動が展開された。この結果得られたのが現在の熊野寮であり、吉田寮からの引っ越し者を中心に自治会が形成された。


 ALT-HIDELBERG (1963年)


文部省の学寮運営方針変更

 文部省は1962年に二・一八通達を提出し、寮における水光熱費の個人負担の徹底を求めた。同年8月には「○○大学学生管理運営規則」(の部分には各大学名が入る。略して管規と呼ばれる)を作成、寮の管理運営の徹底と標準化を目指した。

「水光熱費などの受益者負担が徹底されることになれば、低所得者が大学に通うことが難しくなってしまう。また、大学側が寮を標準化された規則によって管理することになれば、現在自治会が目指しているような、寮に住んでいる者の意見を十分に反映した柔軟な運営が難しくなる可能性がある。寮を多くの人にとってよりよいものにすることを第一に考えれば、文部省の方針は適切でないと思われる」。このような問題意識のもと、全国の学寮などでこれらの方針に反対する学生運動が発生した。
 京大では、当局が文部省方針と異なる自主路線を歩むという選択をしたが、当時の吉田寮自治会は政府の文教政策そのものに寮問題の根本があるとして、運動を展開していった。

 1965年には寄宿料の3倍値上げ反対をきっかけに、吉田寮と熊野寮が「寄宿寮不払い闘争」を宣言した。実際の不払いは熊野寮のみで、吉田寮はそれに連帯するかたちである。最終的に不払い闘争は実を結ばなかったが、この動きが1969年以降の運動につながっていった。


団交確約集

団交確約集

寄宿寮について記された個所 (1965年)

6.廃寮の危機を乗り越えて

学寮不要の文部省方針

 1971年の中央教育審議会答申で、文部省は学寮を「紛争の根源地」と断定、その教育的意義を否定した。これに基づいて多くの学寮で、水光熱費の徴収や入退寮権を大学当局が把握していった。大阪大学、岡山大学などでは、大学当局が反対する寮生を機動隊の力を借りて抑圧し、自治寮の廃寮化を進めていった。
 
京大内での学生運動の動き

 1972年に、同学会(全学自治会)が反民青系となる。これに伴い同学会は、世界革命を目指す観念的な学生運動ではなく、教育学園の課題と、地域の反公害や反差別の課題、底辺労働者の課題などを実践的に結び付けた運動を志向するようになった。
 同学会の最大の闘争課題は1972年から継続された経済学部の竹本助手の処分粉砕闘争であった。しかし1977年には大学評議会でこの処分が承認され、1969年から9年間続いた「京大の紛争状態」が終結する。
 これを機に大学当局は、寮の「正常化」に着手し始めた。

寮の「正常化」に向けた着手、そして在寮期限設定へ
 1978年沢田学部長は、1950年代から行われてきた確約団交体制を否定、さらに寮内の職員(炊フおよび守衛、事務員、掃除人)の今後の補充を行わないこととした。また1980年に翠川学生部長は、寮生が当局に対し個別に入寮届を提出することを強要、提出しない寮生を「不正規寮生」と規定した。

  1982年大学評議会は「吉田寮の在寮期限を昭和61年3月31日とする」という廃寮決定を行った。大学当局は、寮自治会と話し合いを続けることによる「正常化」をあきらめ、現自治会と縁を切って「正常化」する方針に転換したのである。すなわち「廃寮化=建て替え」である。

「在寮期限」に対する闘争

 しかしこの吉田寮の「在寮期限」は学内のコンセンサスが不十分なまま強引に決定されたものであったため、学生自治会などの猛烈な反対運動を呼び起こした。文学部、教養部、農学部、理学部で学部長団交が行われ、それぞれの学部長は学生部の独走に非難の意志を示した。

 学部長団交と並行して、1983年には5年ぶりに学生部長団交が実現した。しかし神野学生部長は強硬路線をとり、話し合いを一方的に打ち切って、水光熱費の要求書を京大の4つの寮に送付した。また1983年の会計検査院の来寮阻止行動に関して寮生8名が逮捕され、5名が起訴された。時計台と学生部棟への抗議行動が、建造物侵入に当たるというのが理由であった。寮自治会はこれらの対応に追われ、「在寮期限」撤回運動に十分に取り組めないまま膠着状態に陥った。

 こうしたなかでさらに寮運動の分化が起こってきた。熊野寮は開寮以来、吉田寮と共同歩調をとっていたが、二寮間に齟齬が生まれてきたのだ。しかし「在寮期限」到来を目前にした「寮生追い出し」という事態に、対立はありながらも多くの学生団体が廃寮反対の声を上げ、そのことが大きな力となった。

 1986年3月31日、吉田寮は「在寮期限」を迎えた。しかし大学当局は上記の学内状況を鑑みて、吉田寮を「在寮期限執行中」という扱いとし、140名の在寮生が継続して居住することを認めた。そのうえで食堂の廃止、入寮募集の停止などを行った。しかし吉田寮は自主入寮募集を続け、その後も百数十名の寮生数を維持した。

 1988年大学当局は一方的に吉田寮の西寮4棟(現在の薬学部構内に建っていたもの)を解体・撤去した。これをきっかけに学生部と吉田寮の話し合いが再開、河合学生部長は吉田寮西寮全体の撤去をもって「在寮期限の執行を終了すること」を提案した。吉田寮自治会は問題の長期化が新寮予算や現寮補修予算の障害になっていることを重視して、提案を受け入れた。こうして1989年に「在寮期限闘争」は終結したのである。

寮生枠の自主的な拡大

 「在寮期限」が設定されて以降、吉田寮は寮に関わる潜在的な当事者をより広く受け入れていくため、入寮対象者の枠を自主的に拡大していった。1985年に女性の学部生、1991年に院生・聴講生・医療短期大学部生、そして1994年には「京都大学学生との同居の切実な必要性が認められるもの」が対象になり、家族や介護者の入寮が可能になった。



`83年度入寮案内


 


`83年度入寮案内
`83年度入寮案内

89年に撤去された吉田寮西寮の写真。





 I will  ’85新入寮生歓迎パンフレット(1985年)






 I will  ’85新入寮生歓迎パンフレット(1985年)






吉田寮入寮パンフレット(1992年)



留学生用 吉田寮入寮案内(1993年)

                                                (おわり)

参考文献:京都大学新聞 「吉田寮物語」 
第2238号(1999年4月1日)、第2244号(1999年7月1日)、第2248号(1999年9月1日)                                第2256号(2000年1月16日)、第2244号(2000年7月1日)、第2313号(2003年2月16日)

5.京大闘争

闘争の背景とその経緯

 1968年、全国の大学で学園闘争が多発した。学費値上げや学生会館の管理運営権の問題などをきっかけに、教育環境の是正を求める「学園問題」と、ベトナム反戦・70年安保の「政治問題」を連結させた運動が展開されたのである。
 京大では、当時の奥田総長が学生に対し話し合い路線をとっていたものの、当局側が寄宿寮不払いや増寮要求を頑なに拒んだため、両者の対立が深まっていった。

 また学生運動の系統の分裂も加速していった。戦後の学生運動は専ら日本共産党の影響の下で進んできたが、60年安保の少し前から、共産党の青年組織である「民青系」と、それとは路線を異にする「反民青系」に分かれるようになっていたのである。
 京大における同学会(全学自治会)、寮闘争委員などは「反民青系」に属し、京大内でもこれら両者の対立は深まっていった。

 こういった状況を背景として、寮生による対学生部闘争が開始される。当時の寮生は「無条件増寮、20年長期計画白紙撤回(吉田東寮廃寮を含むもの)、経理全面公開」を掲げた。1969年3日間にわたる団交が決裂すると、寮闘委は学生部建物を占拠。話し合いを続けても何ら問題が解決されないことに対し怒りを表明した。
 闘争にかかわった学生の意識は多様であった。党派に属する学生は、固有の革命理論に基づく政治運動の拠点づくりを目指したが、大多数の学生は、管理社会を問題視して自らの立場から運動を展開し、新たな活力を求めようとした。こういったひとつの理論に収斂されない多様性が、京大闘争を深くそして長く継続させたといえるだろう。

2011-11-09

8.参考文献 京都大学新聞 「吉田寮物語」

 今昔吉田寮展解説文の参考にさせていただいた、京都大学新聞「吉田寮物語」の記事を部分的にアップしています。

1999年4月1日 吉田寮物語 第一回 創設から一時閉舎まで

1999年4月1日 吉田寮物語 第一回 創設から一時閉舎まで



1999年7月1日 吉田寮物語 食と職

1999年7月1日 吉田寮物語 食と職


1999年7月1日 吉田寮物語 第二回 近衛寮再開から終戦まで




1999年7月1日 吉田寮物語 第二回 近衛寮再開から終戦まで

1999年9月1日 吉田寮物語 第三回 戦後の混乱、荒神橋事件
1999年9月1日 吉田寮物語 第三回 戦後の混乱、荒神橋事件


2000年1月16日 吉田寮物語 祭と政

2000年1月16日 吉田寮物語 祭と政




2000年1月16日 吉田寮物語 第四回 「寄宿舎」から「吉田寮」へ

 2000年1月16日 吉田寮物語 第四回 「寄宿舎」から「吉田寮」へ






 


2000年7月1日 吉田寮物語 第五回 京大闘争、学生部封鎖
 


2000年7月1日 吉田寮物語 第五回 京大闘争、学生部封鎖 

2003年2月16日 吉田寮物語 第六回 廃寮の危機を乗り越えて

2003年2月16日 吉田寮物語 第六回 廃寮の危機を乗り越えて